★明治26年11月
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英国人H・クックが現・小港町一丁目に創業 |
★昭和9年
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日本ヨット協会の要請により現在地に移転 |
★昭和15年
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幻の東京オリンピック ヨット競技オフィシャルサプライヤー |
★昭和23年
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新山下にてクルージングオブジャパン(CCJ)発足 |
★昭和29年
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日本外洋帆走協会(NORC)発足 |
★昭和35年
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岡本豊ローマオリンピック出場 |
★昭和38年
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外洋帆走クルーザーコンテッサV世(オーナー石原裕次郎氏)建造 |
★昭和39年
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東京オリンピックヨット競技オフィシャルサプライヤー |
★昭和52年
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横浜クルージングクラブ(Y.C.C.)発足 |
平成3年★
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横浜クルージングクラブ 創立15周年 |
★平成5年
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岡本造船所 創業100周年 |
■岡本造船所・岡本豊・新山下ハーバーの歴史・・・ 1.「創設から終戦直後まで」 |
文明開化の明治の時代は、欧米より各種の産業が横浜を発祥の地として移入されました。 岡本造船所もその中の一業種として明治26年英国人H・クックが小港町に造船所を開設したのが起源であります。 クック氏指導の下に優秀な技術者が養成され、岡本酒造氏が継承しました。昭和15年、オリンピック開催地が東京に決定し、昭和9年日本ヨット協会の要請により現在地の新山下に移転しました。しかし残念ながらこのオリンピック東京大会は第二次世界大戦勃発により幻の大会となってしまいました。しかしこれを機に新山下の地が日本のヨットのメッカとして世に大きくアピールされると共に、日本のヨットの発展に多大な功績を残すことになりました。 当時の新山下ハーバーは各大学のヨット部が主体となって使用されており、昭和14年頃には、外国人主体の横浜ヨットクラブが根岸海岸より移転され、ハーバーは一層華やかに白い帆が紺碧の海をセーリングしていました。しかしそれも束の間、大東亜戦争勃発で様相は一変。ヨットハーバーの施設は海洋道場となり各大学のヨット部も帆走部と改名、ついには、昭和19年7月、横浜港内外での帆走は全面禁止となりました。当然岡本造船所も軍の管理下に置かれ、救命艇等を建造していました。 そして終戦。復員してきたヨットマンが集まり港に平和のシンボルの白い帆が帰ってきました。昭和21年10月、岡本造船所でA級ディンギーが2艇建造されました。これが戦後のヨット建造への第一歩となりヨット界の幕開けとなりました。 敗戦の暗雲に覆われたヨット界で陽光を照らしたのは昭和24年であった。神奈川国体のヨット競技場が新山下に決定し、クラブハウスが建てられ、周辺道路の整備等々。そして皇太子殿下(現陛下)のご臨席を仰いだこともありました。まさにこの年が新山下におけるヨット元年、さらには日本ヨット界の元年と言えるでしょう。昭和25年に戦後初の外洋レース(第1回大島レース)も新山下からスタートしました。第1回大島レース〜第3回大島レース優勝艇の「アルバトロス」号までの3艇はいずれも岡本造船所の設計建造艇でありました。第3回大島レース優勝艇の艇長は岡本豊氏でもありました。 |
■岡本造船所・岡本豊・新山下ハーバーの歴史・・・ 2.ヨット・モーターボートの輸出地となった新山下 |
岡本造船所設計製造艇が米国に輸出される事になった導線は、当時米国駐留軍将校達が帰国の際に持ち帰ったヨット・モーターボートが米国本土でのヨットレースで優勝した事が起因です。又、なかにはヨットで帰国する将校もあり、当時の新聞を賑わせました。その様な事から、米国の商社からボートショーに展示するので至急建造を、という注文が入りました。その後この23フィートのヨットはボートショーで人気を集め、商社はこの艇を「マヤ」号と命名しサンフランシスコベイでデビューする事となりました。艇は我々の期待以上の人気を得て次々と契約が決まり、とりもなおさず、これが大量輸出の基盤となり輸出の波は大きく広がりました。
当時の新山下には、岡本造船所の他に国際造船所、パシフィックボート社があり、外貨獲得に三社共々に貢献しておりました。こうした状況について当時の新聞紙上では、輸出産業の花形という見出しで大きく報道されました。昭和27年からは「マヤ」クラスに引き続いて20フィートの「ベイレディ」、25フィートの「フルーブルー」の2艇種の設計建造を行い、輸出に乗り出しました。こうした中で岡本豊氏は外貨獲得の報酬として外貨の割当を頂き、業界視察と今後の商談のために平沼横浜市長のメッセージを持ち米国一周に出発したのが昭和32年でありました。到着後サンフランシスコベイで行われたヨットレースに自社製の艇で出場し、海外での初めてのレース経験をしました。 |
■岡本造船所・岡本豊・新山下ハーバーの歴史・・・ 3.岡本造船所とヨット選手・岡本豊 |
昭和35年のローマオリンピックヨット競技には、日本から監督を含め7名が参加し、岡本豊氏が主将を兼務してドラゴンクラスに出場しました。又このチームは全員が新山下の海で育ったヨットマンで固められていました。岡本豊氏のヨット選手としての生活も波に乗り、ローマオリンピックの翌年の昭和36年の第1回ドラゴン級極東選手権マニラ大会、昭和37年には第1回チャイナシーレース(香港―マニラ)に石原慎太郎氏の「コンテッサ II」号で日本チームとして初の国際外洋レースにも出場しました。そしてこのレース中に次は昭和38年(1963年)の世界外洋レースの檜舞台である「トランス・パシフィック・レース」(ロスーホノルル)に出場しようという話が盛り上がりレース終了後帰国してすぐに準備に取りかかりました。
こうした中で昭和39年東京オリンピックのヨット会場が江ノ島に決まり、ヨット熱は更に膨らみ大いに盛り上がりました。 岡本豊氏は、再度ドラゴンクラスで出場すべく挑戦していたが、父酒造氏が造船所で事故に遭い、急逝したため、選手生活に止むなくピリオドを打つことにしました。
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■岡本造船所・岡本豊・新山下ハーバーの歴史・・・ 4.岡本豊の心のルーツ「新山下」そして「横浜クルージングクラブ」発足の意義 |
岡本豊氏は、江ノ島工場設立時に三崎の小網代港の開発事業の設計担当会社から3000坪の水面に付随する陸地を利用してのマリーナ建設の依頼を受けました。日本で最初のフローティングピアの採用、ガントリークレーンの設置等々、近代的な東洋一のハーバー建設が進められました。この建設から運営開始までの期間中は、新山下の工場はスタッフに任せ、小網代港通いは長く続けられました。こうして誕生したシーボニアマリーナは、同様の企画を持った会社のよきモデルになりました。引き続き取り掛かったのは、兵庫県淡路島洲本のマリーナ開発で、施主である伊藤忠不動産の顧問として大阪と洲本の現場通いで二年間を費やし、サントピアマリーナが完成し、東のシーボニア、西のサントピアと共に東洋一を誇るマリーナ建設に携わりました。
その他にも沖縄、熊本、松山、福島など数十社で進められてきたプロジェクトは突如襲ったオイルショックで机上の夢となりました。 こうしたいきさつが岡本豊の心のルーツであるこの新山下に押し返しました。そして我に返って新山下を眺めたとき、昔のヨットのメッカであったこの地のヨット灯りは消えつつあると思いました。 以上の事から新山下で育ったヨットマンが青春を語る場所、外国のヨット仲間を招待できる場所、又歴史的なヨット・ボート・ハーバー・造船所のエリアで潮風を受けながら団欒できる場所としてのヨットクラブが必要だと・・・岡本造船所の一棟を借り受け、昭和51年から準備にかかり昭和53年に「横浜クルージングクラブ」が発足したのであります。 |